芥川龍之介の後期の作品に、「西方の人」と「續西方の人」といふのがある。四つの福音書に對する秀逸なcritiqueとなつてゐて、僕が聖書をきちんと讀んでみたいと思つたきつかけもこの作品である。
福音書を讀むとすぐにわかることであるが、イエスといふ人は、世間に云はれてゐるほど聖人君子ではない。餓鬼の頃から生意気で我儘、自分が私生兒であることは薄々氣附いてをり、そのことで二親を詰りもする(路加2.49)。切れやすく、腹が減つてくると無花果の木にまで當たる(馬太21.19、馬可11.14)。毎度ちんぷんかんぷんの喩へ話をしては、弟子には小言ばかり言つてゐる。あれではイスカリヲテのユダが出て來るのも無理はなからう。ホモ的なところもあつたやうだが(約翰13.23)、友達はゐない。若し一人でもゐたとすれば、それは、十字架にかけられた後の遺體を引き取りにきたアリマタヤのヨゼフだつたと芥川は書いてゐる(馬太27.57、馬可15.43、路加23.50、約翰19.38)。
芥川が深いなと思ふのは、このやうなイエス像から、カトリツク教が、「クリストに達する爲にマリアを通じるのを常としてゐる」理由を、ちやんと讀み取つてゐることである。曰く、「直ちにクリストに達しようとするのは人生ではいつも危險である。」また別の箇所では、「クリスト教はクリスト自身も實行することの出來なかつた、逆説の多い詩的宗教である」とも云つてゐる。
福音書を今なほ文學たらしめてゐるのは、おそらくこの逆説であり、イエスの性格の激しさであらう。ことに屁理屈と人の惡口を云はせれば天下一品である。三島由紀夫が「立派な文體で書かれた人の惡口を讀まされるほど胸のすくものはない」といふ意味のことをどこかに書いてゐたが、馬太傳第二三章は、まさにその壓卷であらう。少し引用してみる。
13:噫 なんぢら禍 なるかな僞善 なる學者 とパリサイの人 よ蓋 なんぢら天國 を人 の前 に閉 て自 ら入 ず且 いらんとする者 の入 をも許 さざれば也
15: ああ禍 なるかな僞善 なる學者 とパリサイの人 よ蓋 なんぢら徧 く水陸 を歴 巡 り一人 をも己 が宗旨 に引 入 んとす既 に引 入 れば之 を爾曹 よりも倍 したる地獄 の子 と爲 り
24:瞽者 なる相者 よ爾曹 は蠉 を漉 出 して駱駝 を呑 もの也
27:噫 なんぢら禍 なる哉 僞善 なる學者 とパリサイの人 よ爾曹 は白 く塗 たる墓 に似 たり外 は美 しく見 れども内 は骸骨 と諸 の汚穢 にて充
33:蛇 蝮 の類 よ爾曹 いかで地獄 の刑罪 を免 れんや
「ああわざはひなるかな…」と何度も畳み掛けるrhythmが僕は大好きで、自分版「聲に出して讀みたい日本語」の第一等である。不思議なことに、明治譯に比べ、一般に迫力に缺ける文體となりがちな大正譯にあつても、ここの惡口だけは迫力を失はず生き生きしてゐる。
十二弟子の中で僕が一番面白いと思ふのは、トマスである。處刑後のイエスがマグダラのマリアや他の弟子達の前に復活したとのニュースを聞いてもトマスは信じない。約翰傳福音書第二十章から、
25:他 の弟子 かれに曰 けるは我儕 主 を見 たりトマス彼等 に曰 けるは我 もし其 手 に釘 の迹 を見 わが指 を釘 の迹 に探 わが手 を其 脅 に探 に非 ずば信 ぜじ
しかしこの後イエスはトマスの前に現れ、
27:遂 にトマスに曰 けるは爾 の指 を此 に伸 て我 手 を見 なんぢの手 を伸 て我 脅 にさせ
シュンとしたトマスには、もう次の言葉しか出ない。
28: トマス答 て彼 に曰 けるは我 主 よ我 神 よ
何とも笑つてしまふが、しかし次のイエスのメッセージは、我々現代人の顔を引き締めさせずにはおかない。
29: イエス彼 に曰 けるは爾 われを見 しに因 て信 ず見 ずして信 ずる者 は福 なり
福音書を讀むとすぐにわかることであるが、イエスといふ人は、世間に云はれてゐるほど聖人君子ではない。餓鬼の頃から生意気で我儘、自分が私生兒であることは薄々氣附いてをり、そのことで二親を詰りもする(路加2.49)。切れやすく、腹が減つてくると無花果の木にまで當たる(馬太21.19、馬可11.14)。毎度ちんぷんかんぷんの喩へ話をしては、弟子には小言ばかり言つてゐる。あれではイスカリヲテのユダが出て來るのも無理はなからう。ホモ的なところもあつたやうだが(約翰13.23)、友達はゐない。若し一人でもゐたとすれば、それは、十字架にかけられた後の遺體を引き取りにきたアリマタヤのヨゼフだつたと芥川は書いてゐる(馬太27.57、馬可15.43、路加23.50、約翰19.38)。
芥川が深いなと思ふのは、このやうなイエス像から、カトリツク教が、「クリストに達する爲にマリアを通じるのを常としてゐる」理由を、ちやんと讀み取つてゐることである。曰く、「直ちにクリストに達しようとするのは人生ではいつも危險である。」また別の箇所では、「クリスト教はクリスト自身も實行することの出來なかつた、逆説の多い詩的宗教である」とも云つてゐる。
福音書を今なほ文學たらしめてゐるのは、おそらくこの逆説であり、イエスの性格の激しさであらう。ことに屁理屈と人の惡口を云はせれば天下一品である。三島由紀夫が「立派な文體で書かれた人の惡口を讀まされるほど胸のすくものはない」といふ意味のことをどこかに書いてゐたが、馬太傳第二三章は、まさにその壓卷であらう。少し引用してみる。
13:
15: ああ
24:
27:
33:
「ああわざはひなるかな…」と何度も畳み掛けるrhythmが僕は大好きで、自分版「聲に出して讀みたい日本語」の第一等である。不思議なことに、明治譯に比べ、一般に迫力に缺ける文體となりがちな大正譯にあつても、ここの惡口だけは迫力を失はず生き生きしてゐる。
十二弟子の中で僕が一番面白いと思ふのは、トマスである。處刑後のイエスがマグダラのマリアや他の弟子達の前に復活したとのニュースを聞いてもトマスは信じない。約翰傳福音書第二十章から、
25:
しかしこの後イエスはトマスの前に現れ、
27:
シュンとしたトマスには、もう次の言葉しか出ない。
28: トマス
何とも笑つてしまふが、しかし次のイエスのメッセージは、我々現代人の顔を引き締めさせずにはおかない。
29: イエス
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